昭和45年9月6日 特別奉修委員会
※合楽の願いを世界に
今朝の御理解の中に申しております。昨日の壮年部会の時に、皆さん、一口づつでも良いから、どうぞ生粋なところを、ギリギリなところを発表してくださいというて、発表された私の左から久富先生と永瀬さんに発表してもらった事を御理解の中にお話しております。それを聞かれながら、あの、今日原さんが、私ならどう応えるだろうかと思うたと。今の貴方の信心のぎりぎりのところを一つ話してみてくださいといわれたら、皆さんどうでしょうか。いっぺん思うてみて下さい。これが貴方の信心の正体だというものを、ね、これが貴方の信心の生粋のものだと。そこんとこをですね、(私共?)思うてみられたら、私共の信心が漠然としてまとまってないものがまとまってくるんじゃないかと思いますね。
そして、しかも、それがね、今朝の御理解にあった、本当に神様の心にピタッと通うもの、いうなら、そこに、なら神様と私共が見合う合理的と申しましたが、信心でいう合理的というのは神様の思いと私共の思いがピタッと合った時、あのおいさみが私のコップについたというお話をしておりましたですね。
( ? )そういうものであるかどうか。それとはずいぶん離れた、はあ、自分の信心が幼稚だなあ、これじゃおかげを頂かんはずだなということを一つ分かる意味においてもですね、皆さんが一生懸命日参り、お参りをなさっておられ、またはこうして特別奉修委員方達が特別にまた残って、日曜のたんびに御祈念をなさるだけではない、それはそうとなお初穂までお供えなさってから、なさっておられると言うこと、ね、と言うようなことが、内容からまず分かって検討していく、いつも向上の、いわゆる上向きの姿勢になっとかにゃいけんということですね。いつも同じじゃいけん。
それは、原さんこう思われたと言うんですよ。私ならどういうふうにその( ? )に答えられるだろうかと思うた時に、原の家の例えば難儀、ね、主人、家内、子供、家内中、いわえる、孫達のいくとに至るまで難儀な事があるなら、どうぞ私ひとりの上に、その難儀を引き受けると言うようなものが原さんの信心んの生粋なものだと言うことが、まあ、感じた、分かったと声に出す。そのために一生懸命信心が出来ておられる訳です。ね、その他のは枝葉なんです。
それが生粋、家の中の難儀、家の中の苦労、苦労は、もう他の者にはさせたくない。自分のね、自分の( ? )一つにその難儀が引き受けられても、修行しても、いわゆる、原の家が立てればというふうに思わ( ? )。
皆さん、その事からどう思われるですか、どういう皆さんなら、どう思われますか。なるほど原さんがおかげを頂きんなさるはずと最近思いましたね。
まあ、原さんを、これだけ熱心な信心をしておられる方に、そういうことを言うちゃあまりコクですけど、ね、おまりにも信心が幼稚ですもんね。私の信心の本気にならせて頂いた動機は引き上げて帰って、この親にね、この親に( ? )目も当てられんと思いましたよ。親に喜んでもらいたいが一念で(ホクシサンガイ?)まで出て行ったのに、裸で帰ってきとる自分の姿というものがあまりにも哀れでね、これじゃいかん、とにかく親が健康なうちに親に喜んでもらえる、親に安心してもらえるおかげば頂かなければというのが、私自身機になった一番初めのきっかけでしたよ。
そういう思いはね、もう半年と( ? )せんでした。私の考えは、なるほど親はそのように大事なもんだけれどもですね、当時、私は三井教会にとにかく朝参りは私と親先生だけでしたよ。朝の御祈念が。お月並祭ちうんたら、家族の方も含めて3人でしたよ。だから、これはーこんなことじゃね、これは本当に先代に対してでも相すまん、親は親でもね、もう一つの親があることに気がついたんですよ。ね、親先生とも( ? )私の親教会という、これは三井教会の発展のために、これは修行せないかんなと思うたんです。もうそれから、私はね、もう昔の昔知ってる信者さんがたのところを、もう毎日のように一軒、一軒と回りました。もう、月大祭の度にね、下駄が入り口のところに十足なり、十五足になり、20足になる。まあ、本当に私が、あちらをご無礼しなければならないような五十足ぐらい月並祭の時に下駄が並ぶようになりました。もうそれが楽しみでした、本当。
というようにですね、私共それに( ? )。そうしていきよる内にです、今度はね、教団のことが考えれるようになったんですよ。ほーら今の金光教はこげなんこっちゃいかん、真の道、真の道と言いながら、この真の道がこんなガタガタになっとったちゃね、人間だんは歩けるかんしれんばってん、自動車やら、トラックやら行かれんこと、金光教の今の道という物は狂っておるということに気がつきたんです。
その頃から、私は三井教会の親先生をはじめ、皆から、いわゆる、異端視されるようになったんですね。今までは、例えば親教会、親教会という間は、もうそれこそ大坪さんじゃなからんごたらる時代があったんですよ。それから、私の信心が教団のことにかけての一生懸命のやはり修行でしたね。
そして、最近、もう私は絶対教団のことを思いませんですね本当なことを言うと、もう私の心の中にいつも去来する物はね、もう世界真の平和のことだけです。世界に私どもの、合楽の祈りが世界中に広がっていくことのことだけです。本当です。ね、というように、なら私の信心を思うて見てください、本当にね、親のためなら命でもかけてでも修行しようという、これなら親、神様に通うだと思うんですね、ところがどうでしょうか、原さんの場合、主人やら子供やら、孫、この人達はどうあるですかまだ、あげん若っかどんが。ね、そげなんつにひっかかる、引っかかりよるけんでほんなこつでけんのですよ。そうでしょうが、本当におかげを頂ききらん人は違うなと私は思いました。
いつまでもひやくせんで驚いた、なら皆さんの一人一人が思うてみなさいって、皆さんも50歩、100歩って。ね、本当にそう思うたらピシャーとおいさみでもあるぐらいのことじゃないでしょうが、ね、だからね、祈りの内容というものが本当に御理解を頂いておんのでございますから、本当に祈りの内容がね、神様の心にピタッと、そのときにおいさみでも頂く、ね、おいさみというのは私どもの思い、神様の思い、いうなら、理がおうた時です、理が、(拍手を一回される)ね、神様の喜びの理がおうた時(拍手を一回される)それを私今日はその御理解では合理的と申しました。
えらい教会のことにも一生懸命、教会の御用なら一生懸命っち、例えば原さん達がいいなさるけん素晴らしいと思うたばってん、それは皆、原一格のためやと。ほんなこつ馬鹿んごたると思うた私は今日聞いてから、ね、合楽の信心の、いわば、中心をなす人たち、皆さんの場合は、ね、その信心がなんという内なことに血道をかけて、なら、同じ修行でもです、ね、願いが小さい、神様のお喜びだけんこというような事柄に修行したっちゃつまらんです、ね、それがささやか修行であっても神様の心にピタッと通うようなね、修行でなかなければ駄目だと。自分の思いを変えなきゃいけないことが分かるでしょうが。
もちろん私はこうやって偉そうに言ってますね、親たる者が違ってきた、ね、親に孝行したいばっかりに教会の本当に中心、いわゆる、教会一番の忠義者にお取立て下さいというて、私が親先生にお取次ぎを頂いた時なんかは親先生も非常に感激なさいました。
三井教会の一番の中意義者にお取立て下さいというお願いをした時に、けれどもこれは三井教会だけじゃでけんって、これは教団全体の意味においての注意義者にお取立て頂かにゃらんと、こう思うた。ね、なら現在私は本当言うたら教団のことは頭にあんまりなかです。ね、ですから私が言う事の中には、教団の中に私の信心が広がっていかにゃらんと言わんでしょうが、世界中に広がっていくということしかこの頃言わんでしょうが。ね、ですから、まあ、大きなことを言うようですけれども、ならそれは、本当に場合には移ろうなことがあります。
ね、昨日、これも壮年会の(清さん?きよしさん)がお届を、発表しておりますということの、その事の中にですね、先月の壮年部会から今日まで悩み続けておることがありますと、こういう。どういう事ばそんなに悩み続けておるのかというたらね、いつ来るたんびに、親先生が教祖の信心が素晴らしか、いつも言うて頂くのが楽しみで参ってきよったっち、ところが、本当に親先生が教祖様の信心が素晴らしいと仰るとが、本当に自分のものであるかと、実際検討してみたら、先生、あれは全部が全部じゃないですけれども、うそでした( ? )
だから、それは清さん私も知っとったと私は言いました。じゃなかったら、まちっとどうかはっきりせにゃんうそだと私は言うた。ね、だから、そういう今ままで嘘、親先生に嘘でも言うて親先生から誉められることが楽しみじゃった、そのことが悩み続けてです、その中に言うて来たこと自分が、自分が言うてきたことを、ほんなものにする内容を詰めていくことに一生懸命だということを言うておりますね。
なら、私が申しますこともです、ね、さあーみすのためとか、世界中のためとかということはです、本当にそれは、もう、本当に汚濁(おだく)って言われたってしょうがないぐらい自分で覚えます、というぐらいに打つようなこともあります。
けれどもね、こうやって言うておる事は、しかし、必ず少しづつは向上していきよる。その中に詰まっていきよる。その証拠にです、だんだん祈りが大きくなっていき、行くだけ私の、なら、現れてくるおかげというものが大きくなっていきよるじゃないかということです。
ね、だから、皆さんにこういうて下さい。こう願うて下さいと、私は皆さんに頼みようないです。お互いの信心のほんのぎりぎりのところがです、本当に神様の心に理がピタッと合うよう所にいっとるかどうかですよ。それが、ただ、ならもう合楽で20年、しかも一家中で信心させて頂いて修行といいや、本当によか修行をなさって、ね、教会の御用ならもう前には進んでも( ? )修行をしようんなさるばってん、それが、ただ原一家のことのためです。いっつもきちのせいで。これじゃ、神様の心にピタッとカチッと言わんはずだと私は思うた。ね、私はどうでもそういうようなところをですね、開眼せにゃいかんです、ね、悟らにゃいかんです、自分の信心の幼稚なことに本当に驚くぐらいにですね、私は感じさせて頂いてです、まちっとマシな信心にお互いが、せっかくね、50なら50、100なら100の修行をさせてもらうならば、その修行のね目当てというものがね、神様の心にピタッと合うようなものじゃないかんということですたい。ね、そういう所をですね、私は思うて見て、今日本当に原さんが赤裸々に自分のことをよう言うて下さったと、原さんにしてこれなんだから、他の者は皆がそうじゃろうと私はそう思いましたね、だから、自分のことの上におかげが右、左になると、もう迷うようなことになってきたりするんですよ。
願いというものが大きければ、いわゆる、行き詰まりもなかなければ、迷いも起こらん。ね、そういうね、信心を一つ本気で見付けていかなきゃいけんとですね。
どうぞ。
入力者=末永静行